ある仲のよい夫婦がいた。子供たちから見ても、仲のよい夫婦だった。夫は定年を迎える5年まえ、残された人生を自分流に生きてみたいと退職をした。妻もそれを応援した。しかしながら退職の送別会で、気が抜けたのか、突然倒れ、そのまま亡くなった。56歳だった。当たり前にそばにいた人がいない。愛していた人がこの世からいなくなる。突然の現実に、妻は、なにもする気力がわかなかった。１年たっても、妻は落ち込んでいた。何をやっても満たされなかった。自分も夫のもとへ、と何度思ったことだろう。かろうじて子供たちの存在が、それにブレーキをかけていた。息子は、悲しみにくれるその姿が自分とダブり、１年間、何も声をかけることができなかった。あるとき、見るに見かねて、絞り出すような声で息子はいった。「悲しいのは、お母さんだけじゃないよ」。息子は、母に言いながら、自分自身に言いきかせていたのかもしれない。母は、そのひと言にハッとした。自分が親としてみせるべき姿を見せなくては、と。息子の言葉が、亡き夫の天国からのメッセージのようにも思えた。その瞬間から、母は元気になった。というより、自分が元気でいることが、何よりも亡き夫を喜ばせると悟った。たったひと言が、人を生き返らせ、たったひと言が、人に新しい命を吹き込む。私たちが日常発している何気ないひと言も、相手の運命を運んでいる。人は、たったひと言で生まれ変わることができる。
